常に何かに追われている

最近、毎日のように締め切り日を意識しています。

 

一番大きいのは大学の課題です。

 

毎週、10コマくらいの授業で課題提出があります。オンラインで授業を受けたその日のうちに提出できる課題もあるのですが、5個くらいの授業の課題は時間のかかる作業を伴います。

 

そしてそのそれぞれが1週間以内に提出しなくてはなりません。今日はこの課題の締めきり、明日はこの課題の締めきり......というように常に締め切り日がつきまといます。

 

しかも私の性質上、課題が提示された瞬間に終わらせるということができないので、締め切り日前日から当日にかけて一気に終わらせます。常に緊迫感があって息がつまりそうになります。

 

それに加えて塾講のバイトの事務作業の締めきりとか、サークルのやらなくてはならない仕事もあります。

 

締め切り直前に課題を始めようとすると、作業が適当になってよくありません。さらにいつも何かに追われている感覚というのは精神衛生上よくないです。この感覚は逆に現実逃避に繋がりやすいと思います。締め切りがあると分かっているのに、やる気がでなくてついゲームしたり動画サイトを見てしまう........などよくあります。

 

しかし、今期の授業も残すところあと1ヶ月しかありません。この前気付きました。コロナで4月がまるまるなくなったので、とても短く感じます。残り1ヶ月間はゆとりをもって過ごしたいです。

『日本経済の歴史1 中世』Part.3

『 日本経済の歴史1 中世』のまとめ。

kyshami.hatenablog.com

 前回は第2章をまとめたが、今回は都合により第5章まとめ。

 

第5章 中世の交易(綿貫友子)

第1節では中世の特徴として権門体制、職制社会、自力救済型社会の3つを挙げている。そしてこれらの特徴のために商人たちは、神人、寄人、供御人、公人などとして権門の配下となり競合者に対して優位に立てるような保護を求めた。それぞれの権門の保障は十全でなかったために複数の権門に従属することもあった。

 

第2節では対外貿易について述べている。中国からの渡来品である唐物は威信財としてて機能していた。遣唐使停止から鎌倉期にかけて中国との貿易は制限されていたが、民間の貿易商人の往来は活発であり、平氏をはじめ、その貿易に関わった人々は巨大な利益を得た。明の時代には倭寇の活動が顕著となったが、そこには明の海禁政策によって朝貢貿易から締め出された人々が含まれていた。

 

第3節では国内商業について述べている。まず貢納と交易とが切っても切れない関係にあると指摘されている。11世紀半ばには官物の賦課基準が地域の主要生産物を米現物に換算した上で3斗と定められた。これは交易を前提としている。また、貢納物輸送に商品を混載することで、津料・関銭を払わずに私的商売をすることも中世を通してあった。その後12世紀頃から神人や寄人が現われて商業活動を行った。さらに時代が進むと権門の権威が薄れるとともに、新興勢力として権門に属さなかったり各国戦国大名に保護されて商売を行う者が現われた。

 

第4節では主に市場の創設について論じている。鎌倉幕府は強引な買いたたきや行商人、人身売買、販売用の酒を禁止した。これに対して室町幕府は土倉の活動を積極的に認め、市場拡大策を採った。

やる気あるとめっちゃ出来るけど、やる気無いとなんもできない

適当なタイトルにしてしまいました。

 

今はブログ書くやる気がないのです。

 

やる気になった日は一度に何個も記事を書いてしまうのですが、一日中やる気のない日は全然書けません。

 

一度やる気になってしまえばいくらでも書くことが出来るのですが、やる気になるまでが時間かかるし、めったにやる気になることがありません。

 

日常生活でも同じで、勉強、料理、洗濯、掃除など、一度やる気になってしまえば何時間でも集中してしまい、周りが見えなくなることがよくあります。その作業だけに集中して没頭してしまうのです。しかし、やる気のない日には何もできません。

 

たまに一日ずっとやる気ある日があるので、その日は勉強、買い物、料理、洗濯などいろんなことが一遍に出来ます。

 

しかし、今日みたいな日はこの時間までたいしたこともせずに無駄に過ごしているのです。

 

明日は書評シリーズを書くのを目標にして頑張ります。

通俗的な歴史に触れずに生きられるか?

この前、大学のとある授業で、「通俗的な歴史ものと歴史学の違いについてのあなたの意見を述べよ」という300字程度の小レポート課題が出ました。

 

ここで言う通俗的な歴史ものとは、時代小説や大河ドラマなどの一般大衆向け創作物のことです。

 

私は、通俗的な歴史ものの目的はあくまでも人々を楽しませることであり、そのためには事実を脚色して伝えることもある点で、歴史学とは異なると思います。異なる意見としては、歴史学も現在の世界観に基づいて過去の証拠から一番可能性の高い事実を考えていくという意味では物語の創造に過ぎないため、通俗的な歴史ものとなんら違いはない、というのも考えられます。

 

それはさておき、授業の最後にこの課題に関して質問する人がいました。

 

通俗的な歴史ものにこれまで一回も触れたことがないので書けません

 

......いや、嘘つけ!!

 

訳の分からない質問に思わず笑いそうになってしまったのですが、質問者はいたって真面目な様子。そんな人がいるとは先生も想定していなかったらしく、戸惑っています。

先生が「本当に今まで一回も触れたことないんですか?大河ドラマとかでも良いんですけど......」と確認するも、その人は見たことないと繰り返すばかり。結局、その人だけ違う課題になりました。

 

やれやれ......頭のおかしい人もいたもんだな、と思っていたのですが、よくよく考えてみれば今までに一回も通俗的な歴史ものに触れたことがないというのは論理的には可能か......とも思えます。

 

大河ドラマとか水戸黄門とかを1回も見たことない人もいるだろうし、時代小説や歴史マンガを読まないでも生きていける......

 

だけど本当にそんなことあり得るのか?

 

疑問に思います。歴史学を学ぼうとしている人が歴史を好きになったきっかけは司馬遼太郎池波正太郎にはまったとか、信長の野望戦国BASARAなどのゲームで好きになったとかでしょう。純粋な歴史学だけを見て勉強しようと思ったとか、ありえるのでしょうか?

 

そうでなくとも私たちの周りには通俗的な歴史ものであふれているように思います。

 

例えば、中学や高校の国語の授業で触れたことがないか、教科書に載っていた作品を思い返してみました。

 

ところが、あまり思いつかないのです。例えば、ごんぎつね、少年の日の思い出、竹取物語走れメロス蜘蛛の糸山月記、こころ......歴史物とは呼べそうにないですね。源氏物語とかはどうでしょう?ちょっと微妙でしょうか。平家物語は......?これは歴史ものと呼んでも良さそうです。私はこれくらいしか思いつきません。だけど質問者は平家物語を習わなかったのかもしれないし......

 

ということで、この話を友人にもして議論した結果、今までの人生で通俗的な歴史ものに触れずに生きることはあり得なくはない。けれど絶対どこか本人の気付かないところで触れているはずだ、ということになりました。

 

とにかく、一人の質問からこうも考えさせられることになるとは.......大学には多様な人がいるんだなあと再認識できました。

最強の異能力は何か?

異能力系の漫画やアニメは昔から多いですよね。

 

そんな異能力の中で最強の能力は何なのか?

 

友人と議論したことがあります。

 

この場合、火力とか殺傷能力が高いのは何か、ということにはならないでしょう。おそらくそれ以前の問題で、物理攻撃ではなく魔術系の能力になると思います。最強というより最優の能力は何か、ということです。

 

私は最優の能力は「どんな能力も無効に出来る能力」だと言いました。(文ストの太宰さんが念頭にありました。)物理攻撃も精神攻撃も全て無効に出来たらそれは最も優れているのではないでしょうか。この場合、能力を使わない生身の戦闘能力で勝負が決まるのでしょう。あくまでも最優の能力の話なので、ここでは問題ありません。

 

それに対して友人は「運命を変えられる能力」だと主張しました。それも「どんな能力も無効にできる能力」を使えば勝てると思ったのですが、その友人いわく「無効にできる能力者に勝てるという運命を事前に決めておけば勝てる」ということなのです。

 

なるほど、と思いました。確かにそれは強いです。しかしその事前の能力発動も無効に出来るのではないでしょうか?そうなるともはや「能力を無効にできる能力者」の性能の問題になってきますね。自分に向けられた能力だけを無効に出来るのか、それとも、いつどこで誰が能力を発動しても瞬時にそれを無効にできるのか?その後は不毛な議論になりました......

 

なんて馬鹿な議論をしていたのでしょう!今ここに書いてみて思いました。真面目に話していたけど、能力なんてないんだからどっちでもいいじゃん。

 

たまにはこんなのもいいですが、出来ればもう少し建設的な議論をしたいものです。