書評 ゴーリキー『どん底』

ゴーリキーどん底』 

どん底 (岩波文庫)

  ゴーリキー作『どん底』は1902年に書かれた戯曲。おそらくゴーリキーの作品の中で一番有名だろう。全体は四部構成で、ロシア帝政下の最下層の住民の様子を生々しく描き出している。

 

どん底』においてまず目に付くのはロシア革命前の帝政下におけるルンペン・プロレタリアートの生活の実態が写実的に書かれている点だ。これは作者のゴーリキーが青年時代に実際に経験したことが反映された結果である。舞台は半地下の木賃宿で、そこに10人以上の貧民が暮らしている。

 

そこには現状を嘆き、現状打破を目指す人々の姿が認められる。例えば、登場人物の一人サーチンの台詞に「おら人間の言葉にあきあきしちまったからよ……おれたちの言葉にみんなあきちまったからよ!どれもこれも……きっと千べんは聞いてるからな……」「おらな、わけのわからねえ珍妙な言葉が好きさ……」(19ページ)というのがある。ここからは『どん底』よりも後の時代になって提唱されたクルチョーヌィフの超理性限語(ザーウミ言語)の源流のようなものを感じ取ることが出来る。

 

 この作中で最も異彩を放つ登場人物であるルカについて。彼は巡礼者ということになっており、第一幕で突然どん底に現れ、第四幕では既に退場している。彼はその他の住人と異なり言動が柔らかく、自分の確固たる考えをもっているように思われる。作中で登場人物たちは少なからず彼に影響を受け、第四幕ではルカの言葉について回想し、自分たちも生きる意味について考えることになる。

 

そこでは彼の考えは次のようにまとめられる。すなわち人間はよりよきもののために生きており、人間を尊敬しなければならないということだ。訳者である中村白葉の解説によると「これはいわば、ゴーリキイの嘘の哲学、夢の教理の説教者であって、この篇におけるゴーリキイの思想の代弁者である」(168ページ)。

 

つまり上記のルカの考えはゴーリキー自身の独自の考えと言える。彼は登場人物たちに、このようなところにいてはいけない、新しい生活を始めなければならないと助言しているのだ。一つの例を挙げると、役者と呼ばれる人物に対してアルコール中毒を直す病院を紹介し、新しい生活を始める決心をさせている。これもゴーリキーが最下層貧民に伝えたかったことなのかも知れない。今までの生活に愚痴をこぼし、己の没落ぶりを嘆くだけだった人々に新しい生活を始めることができることを示したのだ。

 

しかし、役者は第四幕の最終場面で首をくくってしまう。そこで物語は幕を下ろす。この場面は第三幕でルカが語った、真実の国を求めていたがこの世界にはないと悟った男が首をつるという話と重ねることができる。つまり、役者の自殺によって新天地など今のこの世にはないことが示されているのだ。

  

<参考文献>

ゴーリキー作『どん底』中村白葉訳、岩波文庫、1936年