チェーホフ『桜の園』

チェーホフ1904『桜の園』の感想を書いていく。

 

桜の園 (岩波文庫)

 

桜の園』はチェーホフの最後の作品である。

 

中心となる人物はラネーフスカヤ夫人。南ロシアの地主である。物語は彼女がフランスから5年ぶりに帰るところから始まる。

 

最初は時代の流れについて行けずに落ちぶれたかわいそうな貴族たちのお話かと思っていたが、少し違った。当主のラネーフスカヤ夫人にどうしても同情できないのだ。かつての農奴の息子で今は実業家のロパーヒンの再三の忠告にも関わらずラネーフスカヤ夫人と兄のガーエフは一向に対策を打ち出そうとしない。その浮世離れした振る舞いにはもどかしささえ覚える。

 

ロパーヒン 失礼ですが、お二人のように呑気な、浮世離れしたお方には、これまで出会ったこともありません。お宅の領地は売られるんだと、こうしてちゃんとロシア語で申し上げているのに、まるっきりおわかりにならない。

ラネーフスカヤ じゃ、どうすればよろしいの?ちゃんと教えて下さいな。

ロパーヒン 毎日お教えしてるじゃないですか。それもおなじ事を......。桜の園も土地も別荘用に貸すほかはない、それも即刻手を打つ必要がある、競売は目の前なんだからって......。わかって下さいよ!(p57)

 

昔の貴族の気分から抜け出すことの出来ない夫人と新興の実業家であるロパーヒンの考え方の違いがはっきりと現われている。

 

3章に競売の結果が書かれているのだが、それは飛ばして4章に行こう。結局土地を失ってばらばらになっていく夫人の家族が描かれている。今まで出てきた登場人物たちのいくつかの組み合わせが会話を繰り広げるのだが、その中でも盛り上がるのはロパーヒンとラネーフスカヤ夫人の養女ワーリャとの別れのシーンだ。

 

この二人は作中で幾度となくからみ、周りの人たちからは結婚すると思われ、勧められていた。当人同士もまんざらでもなさそうだったのだが、最後の分れの間際になってラネーフスカヤ夫人が気を回してロパーヒンにプロポーズの機会を作ってくれたのだ。私はもちろんプロポーズするものと思っていたのだが、二人は簡単な会話をしてだけでロパーヒンのほうから去ってしまう。おいて行かれたワーリャはさめざめと泣く。手に入れた者と失った者の違いのようで辛い。ロパーヒンがプロポーズしないというのは直前の「折りよくシャンパンも揃ってる......。(コップを見る)みんな空だ、誰かが飲んでしまった......」(p123)という場面に象徴されていたのかも知れない。(ここはおそらく笑いのポイントだと思うのだが、ヤーシャが飲んでしまったのだ。)もう一つ、訳者である小野理子さんの解説に書かれていたことだが、ロパーヒンがプロポーズしなかった理由の一つにロパーヒンがラネーフスカヤ夫人に憧れを抱いていたということがある。私は全く気がつかなかったが、それは解説に書かれているとおり、彼の言動の端々から分かる。そうなるとこの作品には落ちぶれていく貴族の他に、新興農民のロパーヒンによる地主のラネーフスカヤ夫人への恋という隠されたテーマがあったとも考えられる。

 

後は細かい点をいくつか。第4章でピーシクが駆け込んできて自分の所有する土地から鉱山資源が発見された、それを利用したいイギリス人に土地を貸し出したことで金が手に入ったという話があるが、これは第1章での彼の台詞「私は望みを捨てません。せんだっても、万事休す、おしまいだ、と思ったとたん、なんと、鉄道がわしの土地の上を通りましてな、金がころがりこんだ。今度もきっとそのうち、何か起こりますぞ。ダーシェンカが20万ルーブル当てるとか......。あの子は宝くじを持っとります......」の回収である。

 

また、第四章では手品や大道芸の得意なシャルロッタも出てくるが、そこで彼女はこんな行動をとる。

 

シャルロッタ (赤ん坊をくるんだような形の包みを取り上げる)あたしの赤ちゃん、ねんねん、ころり......

「オギャー、オギャー!」という泣き声がする。

泣くんじゃない、坊やはいい子だねんねんよ......

「オギャー、オギャー!」

おお、おお、なんて可哀そうな子だろう!(包みをもとの所へ放り投げる)(p119)

 

これはいかにも不吉だ。赤ん坊の声は腹話術が得意な彼女が演じているのだが、最後にはその包みは放り投げられる。これから先、彼女が子ども産んだとしても不幸なことが訪れるという予言のように思える。

 

チェーホフはこの作品を喜劇として作ったらしい。劇場のほうは悲劇と捉えたので演出の仕方で対立があったそうだ。しかし、私にもどうしても悲劇にしか見えない。唯一、希望をたくせるとすればアーニャとトロフィーモフの二人だが、結局、ラネーフスカヤ夫人は土地を失い、家族はみんなばらばらになり、ロパーヒンとワーリャは結ばれない。極めつけは最後の描写である。

 

遠くで音が、天から降ってきたような、弦の切れたような、すうっと消えていく、もの悲しい音が響く。ふたたび静寂がおとずれ、聞こえるものとては、庭園の遠くで樹を打つ斧の響きだけである。(p131)

 

これで物語は幕を閉じる。この弦の切れたような音は第2章でも言及されており、不幸の予兆として扱われている。この先も不幸があるという予測がつくのである。そしてラネーフスカヤ夫人思い出の桜の木は切り倒されているのである。

 

最近、ゴーリキーばかり読んでいた私がこれを読むと、さすがに毎日食うものにも困っている貧民と比べれば『桜の園』の登場人物は幸せに見えるが、それでも今までの生活から一気に転落する、そしてそれに対してなす術のない貴族の図は悲劇に思える。

 

ゴーリキーと対比をしておくと、どちらにも農奴解放後の新興農民というのが出てくるが(ここではロパーヒン)、その扱い方は異なる。『桜の園』のロパーヒンは没落する貴族に対して、昔の農奴の経験を糧にして労働に励み、自分の努力で財を作ろうとしている賢い人というイメージだ。それに対してゴーリキーによく出てくる新興実業家は金を楯に威張り散らし、貧民を人間とも思わない極悪な人物というイメージだ。私はこう感じたが、どうやら解説によると『桜の園』のロパーヒンだけが例外的な商人の姿らしい。チェーホフの他の作品も読む必要がありそうだ。