網野善彦「日本の歴史をよみなおす(全)」

網野善彦「日本の歴史をよみなおす(全)」2005.ちくま学芸文庫のまとめを書いていく。

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

 

この本は前半に1991年に書かれた『日本の歴史をよみなおす』、後半に1996年に『続・日本の歴史をよみなおす』を収録している。前半は以前に読んだ『日本中世に何が起きたか』と内容がかぶる点もあるので、『日本中世に何が起きたか』であまり触れられていない第5章 天皇と「日本」の国号のまとめから始めたいと思う。

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この章では天皇の成立と日本という国号の成立について論じている。

天皇という称号が安定的に使われるようになるのは持統天皇の頃からであり、それと同様、日本という国号が用いられるのも天武・持統の頃というのが最近の通説である。ということはそれ以前には日本人も日本も存在していない。古代は海によって隔てられていた訳ではなく、むしろ重要な交通路だったため、西日本は朝鮮半島、中国大陸と繋がりが深く、東日本との差異のほうが大きかった。

 

次に後半の『続・日本の歴史をよみなおす』について。ここで述べられている重要なポイントは日本が農業を中心とした国だったという思い込みが誤りであることと、非農業生産の占める割合が非常に高かったということだ。

 

最初に能登の時国家を取り上げて百姓=農民という誤解を解こうとしている。江戸時代における時国家は農奴を使役して農場を経営する大手作り経営とこれまでは考えられていたが、実は船を所持しており松前から大阪にかけての広い範囲で商業をしていたことが分かった。また、製塩、製炭、金融業にも手を出していたことが確認できた。さらに、時国家の親戚である柴草屋という商人に注目すると、時国家に多額の金を貸していることが分かった。ところが、驚くべきことに柴草屋は頭振、つまり水呑に分類されていた。水呑というと学校の教科書にも書かれているとおり、自分の土地を持たない貧しい農民というイメージがあるが、時国家の文書から見える水呑・柴草屋は全くそのように見えない。むしろ廻船と商業を営む豊かな商人なのだ。つまり柴草屋は土地を持たなくてもやっていける百姓であり、貧しい農民ではなかったのだ。ところが江戸時代は石高を基準にしているのでこのような百姓も水呑に分類されてしまった。

 

そもそも百姓という語に農民という意味はないのだが、お百姓さん=農民というイメージが日本人には確実にある。それはなぜか。理由の一つとして最初の律令国家が水田を国の制度の基礎においたことが挙げられている。すべての人民に土地を与え、それを基礎にして税金をとった。その後、律令制が崩壊してできた荘園公領制の下でも水田を課税の基準にして年貢、公事を取り立てている。さらには近世の江戸幕府に至ってでさえ、様々な収益をすべて米に換算して賦課基準としている。

 

さらに研究者たちが百姓=農民というイメージのまま来てしまったことについての理由として、現在まで伝わっている文書は農業、田畠に関するものが多く、その他の商業活動が分かる文書が少ないことが挙げられている。土地に税金がかかっているのだからこれは当たり前のことである。しかし、紙背文書を調べてみると今まで貧しい農民だと考えられていた百姓が船を所持し遠くまで商売に出かけていることが分かる。

 

この農業中心の日本像を捨てると様々な誤りが見えてくる。河海交通の活発さについても誤ったイメージが多い。古代・中世の海は交通の障害ではなくむしろ開かれた交通路なのだ。そして様々な物品が交易されていた。この河川交通を前提にして金融が発達し国家の徴税が可能だった。12世紀には原始的な手形が既にあり、それ以前には米や布、絹が貨幣としての機能をもっていた。13世紀になると中国から大量の銭が流入した。国家は常に農本主義を推し進めてきたが、鎌倉期には金融、商人の組織が力をもち公権力の枠をこえて独自に裁判をするようになる。一方ではこの商人たちを統制下において貿易や交通を掌握しようする考えもありそれは重農主義に対して重商主義的である。この対立が鎌倉幕府における御内人御家人の対立であり、重商主義を極端に推し進めようとしたのが後醍醐天皇であり、足利義満である。このとき、権力は自然と専制的になる。

 

重商主義的な考えが鎌倉時代に既にあったことは驚きだ。特に北条家がほとんどの港を掌握し唐船の派遣を独占し、真珠や太刀、砂金、水銀などを現地で売りさばき、代わりに大量の銭を持ち帰り、それを資本として運用したことは、国家と結びついているという点も含めて西欧風に言えば重商主義の中の総合差額主義ともいえる。資本として運用するというは、つまりそれを元手にして様々な職人を動員して寺社を建造することだ。この貿易差額主義はヨーロッパで言えば17世紀頃に東インド会社が行っていたことで、日本はかなり資本主義の進んだ国だったことになる。

 

網野さんが言っているとおり、民族史的、文明史的観点から見れば古代・中世・近世・近代・現代という区分は意味をなさないのは明らかで、新しい区分が必要である。そのうちの一つは13世紀後半から14世紀にかけてだ。