自由=幸福なのか
大学の授業を受けていると、世間では当たり前に良いと思われていることが、本当は最善の行動や方法ではない、ということによく気付かされます。
代表例としては民主主義とかです。(民主主義は実は一番戦争に繋がりやすい政治形態だというのを聞いたことがあります。詳しくないのであまり深くは言えませんが......)
これは高校までの教育の問題です。この国が資本主義、民主主義、自由主義の国なので、それらは正しいものだと教わります。そこで教わった人が将来先生になっても同じ事をまた子供たちに教えるのです。
教育の話は一旦置いておいて、私が気付いた「世間では良いと思われていること」は自由です。
人間は自由であるべきだということには多くの人の意見が一致するでしょう。(古代奴隷制・中世封建制の貴族や領主に聞いたらそうでないと言うでしょうから、この意見も近代・現代に特有のものでしょうが)
実際に私自身、自由を求めて関東の実家を飛び出し、関西の大学に来ました。
その時は自由という言葉を曖昧に理解していたのですが、大学で勉強している内に自由が本当に正しいのか分からなくなりました。
例えば、以前に記事にも書いたザミャーチンの「われら」を読んでみてもそうです。
この物語が教えてくれるところによれば、自由と幸福が同時に成り立つことはあり得ません。確かにその通りです。人間がみんな自由に行動したら他人との利害衝突が起きてしまいます。
そこでこの物語の中では幸福を自由よりも優先し、単一国が全ての人の行動を決定してみんなの幸福を求めようとしています。しかし、そんな人間らしくない行動が本当に幸福なのか?という問題も新たに生まれます。
さらに、大学で勉強しているうちに、自由という言葉にも色々種類があることが分かりました。
現在のこの国は自由主義だと思いますが、実際には「自由不平等競争主義」なのです。生まれた家庭によって教育を受ける機会(あるいは受ける教育の質)などに不平等がありますが、それを前提として自由を名目にした競争社会に勝手に放り込まれてしまうのです。自由主義社会とは気の向くままに自由に振る舞って良い社会のことではなく、不平等の中で自由に競争しなくてはならない社会なのです。
さらに言えば、この自由競争のもとでは貧困などは自己責任になってしまいます。貧しい人はそれだけで道徳的に劣っていると見なされてしまうのです。実際には生まれたときからの不平等があるのに。日本でこの考えを広く人々に根付かせたのは、江戸時代の二宮尊徳や石田梅岩です。
他にはこんな話もあります。
帝政ロシアで農奴解放が起きたとき、今まで領主のもとで土地に縛り付けられていた農奴たちは、解放令が出されて自由になりました。しかし彼らは土地を失って都市に流れ込み、再び労働に縛られなければ生きることが出来なかったのです。
これは奴隷より良いと思うかもしれませんが、必ずしもそうとは言えません。奴隷は主人の財産なので損なわれることがないようする必要があるのですが、資本家は労働者の労働力だけを買っているので、思う存分搾取したあとで労働者が過労死したとしても、別の労働力を買えば済んでしまうのです。
いつの間にか話が大きくなってしまいました。私は別に結論をもって「どうこうしてほしい」と思っているわけではありません。ただ、こういうことを知っていないと、世界の本質が見えないまま生きてしまうことになりかねないと思ったので、ここに記事として書いた次第です。