安良城盛昭『太閤検地と石高制』Part.2

安良城盛昭『太閤検地と石高制』のまとめのPart.2

 

前回はこちら

kyshami.hatenablog.com

 

豊臣秀吉の年貢搾取の体系は天下統一以前にできあがっていた。畿内では太閤検地が繰り返され、その原型が作られていく。例えば収穫量の3分の2を領主分、3分の1を百姓分にするという基準や、百姓の土地緊縛、耕作強制が定められていった。

 

さて、秀吉が武力によって天下統一を達成するための条件は3つあった。①根拠地において強力な家臣団を培養すること、②根拠地において兵糧米を確保すること、③根拠地における農民の反抗、逃散を防ぐことである。しかし、①②に対して③は絶対的に矛盾してしまう。なぜなら、①②を達成するために農民から出来るだけ多くの年貢を搾取する必要があったが、それでは③の反抗や逃散が起きる可能性が高くなるからだ。この矛盾を解決するために行われたのが太閤検地である。

 

この③が起きかねないというのは佐々成政統治下の肥後国の事例で明らかだ。佐々は強制的に検地を行った結果、国人一揆を誘発させた。よって太閤検地は、秀吉の天下統一過程においては細心の注意を払って進められた。

 

太閤検地によって諸大名たちは自身の領地に秀吉の権力を介入させてしまうと同時に、自らの家臣に対して強固な支配権を行使できるようになった。それまでは名目的な主従関係だったが、大名が意のままに所領替えのできるようになったことにより実質的な主従関係が生まれた。

 

ところで、前回では農民の階層分化(地主制)について扱ったが、太閤検地によってそれはどう変化したのか。実は太閤検地では実際に耕作している人を検地帳に載せ、「作あい」つまり地主・小作関係を否定した。この地主制の否定が上記の①②と③の矛盾を解消した。つまり、下克上の推進力となっていた地主的=侍的農民と零細小農民の一体化を「領主=百姓」の関係に替えたのだ。こうして小家族形態(核家族)による小農民が創出された。

 

小農民の中には作人とは背景を異にする存在もいた。それが下人である。はるか律令時代にまで遡ると彼らは奴婢と呼ばれていた。それが戦国動乱期に名子・被官と呼ばれる身分に進化した。彼らは小家族を形成して耕地を与えられていたが、夫役の代償として名子主から与えられる給与に半ば依存していたため、半奴隷的存在といえる。これが太閤検地に際して百姓身分に上昇させられ、奴隷解放が起きた。人身売買の禁止もこのことを反映している。

 

百姓経営数の維持、増大を前提としている幕藩体制下の幕府・諸藩にとっては、人身売買や譜代下人の存在は否定すべきものであった。人身売買は年貢を払えなくなった百姓が他国に身売りして起きる場合が多かったが、それを防ぐために年期奉公制(年月を決めて下人になり、年が経てば百姓に戻れる)や譜代下人の百姓化が進められた。