高木久史『通貨の日本史』Part.1

高木久史2016『通貨の日本史 無文銭銀、富本銭から電子マネーまで』中公新書のまとめ。

通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで (中公新書)

第1章 中世~古代

日本では古代から社会慣行として布、米、塩が通貨として使われていた。金属貨幣では天智天皇の治世には円形で中心に孔のある無文銭銀が存在していた。秤が八達していない当時において無文銭銀は計数貨幣だった。その次の天武天皇は銀銭(無文銭銀)の使用を禁止し、銅銭=富本銭の使用を命じた。富本銭を国が発行した理由は藤原京の建設に際して労働者への賃金や物資購入費用に充てるためだった。その後に発行された和同開珎銅銭、銀銭が発行されたのも同様の理由による。建設に携わって銭を得た労働者や官吏は商人や地方豪族に銭を支払って必要物資を得る。商人や地方豪族は朝廷に銭を支払い、納税義務を完了したり蓄銭叙位令によって位階を得る。このように銭が循環していたが、これは政府側の負債から回路が始まるという点で和同開珎は政府の債務証書であると言える。その後、皇朝12銭と呼ばれる銭が発行されていったが、政治的デモンストレーションの要素を含んでいた。銭を発行する際に政府は以前の銭の10倍の価値を新銭に与えたが、人々が新銭を嫌ったために最終的に旧銭と同じ市価に下がってしまった。その後平安京の建設が一段落したことや、銅の国内生産が不調になったこともあり、銭の発行は停止された。最後の乾元大宝が発行されたのは958年。それ以後は銭の市価は金属そのものの価値にまで下がった。11世紀には銭に代わって米や布が通貨として表に現われた。ただし、中世の兆しとして、博多での宋銭の流通、切符系文書の登場が見られた。

 

 中世には3回の中国戦の流入の波があった。一つ目が南宋からの波である。その背景には南宋で紙幣が普及し銭への需要が減ったことがある。この時に日本に流入したのは南宋の一つ前の北宋の銭である。平清盛は銭の使用を解禁したが、鎌倉期には朝廷・幕府ともに使用に消極的だった。13世紀前半に中国銭流入の第二の波、金からの流入が起きた。代銭納の普及もあり鎌倉幕府も銭の使用を認めた。13世紀後半に元からの第三の波が訪れる。この背景には元朝の銭使用禁止、紙幣専用政策があった。しかし日本での需要は供給を上回り、価値蓄蔵を目的として銭を地中に隠す行為が見られた。14世紀には明の海禁政策もあり銭不足は深刻となった。この事態に対応して国内で模造銭が作られた。15世紀後半には撰銭と呼ばれる特定の銭種を忌避する行為が見られた。しかし銭の量は圧倒的に不足していたため、嫌われた銭を減価して使用していた。減価された銭は庶民の日常取引、一方の基準銭は高額・遠隔地間取引の際に用いられるなど階層化が進んだ。大名たちは相次いで撰銭令を出し、基準銭の確保、家臣の食糧売買の際の銭の購買力の保証をしようとした。