高木久史『通貨の日本史』Part.2

高木久史『通貨の日本史』のまとめPart.2です。

 

前回はこちら。

kyshami.hatenablog.com

 

今回は2章近世前期。

江戸の貨幣制度は中世にその起源を求めることが出来る。例えば、銭の国内生産は各地で行われ、無文銭などが登場する。形態としては商人が職人を雇って製造させるかたちだ。金貨は後藤家が天正大判を製作した。この後藤家の系譜が江戸幕府における金貨製造を担うことになる。銀貨については石見銀山での銀の大増産が起き、16世紀後半に銀貨の使用が広まったが、それ以前は銀は専ら輸出されていた。金は額面が高く、高額商品取引の場でしか用いられなかったが、銀は庶民にも使われた。

 

 江戸時代の三貨制度のさきがけとして春日大社による金銀銭三貨の比価を示した法令がある。また、近世の銭政策を先取りした浅井長政の撰銭令がある。それは破銭と無文銭以外はすべて基準銭として等価値で使えというものである。従来の撰銭令は銭種によって価値を変えていた。また、信長は一部の低品質銭を除いた全ての銭を「ビタ」として基準銭化した。江戸期においてはビタと寛永通宝は等価で交換された。

 

 秀吉は関東を征服した後、関東で好まれて使われていた永楽通宝とビタの比価を定め、通貨秩序の全国統一を試みた。また、金山銀山の支配、銀貨、金貨の発行を開始した。ただし、以上の浅井や信長の全ての政策は当時の社会慣行を追認した形である。

 

家康は1601年頃に慶長金銀を発行した。金貨は小判と一分金のセットで計数貨幣、銀貨は丁銀と小玉銀のセットで秤量貨幣であった。しかしこれらは社会の需要を満たせず、それぞれの領国や民間で金銀貨幣が作られた。慶長金銀を発行した段階では幕府は銭を発行していない。ビタ(京銭とも呼ばれた)を基準銭として金銀との比価を定めた。

 

 ついに1636年に古代以来、政権が銭貨を発行した。寛永通宝だ。その背景には参勤交代による江戸での銭需要の高まり、銅山開発ラッシュがある。家綱の時代にはビタの通用を停止し、寛永通宝のみを認めた。

 

17世紀には紙幣も登場した。それはまず私札として現われた。それは銀貨単位の額面が書かれることが多かったが、その背景には銭不足、銀貨の輸送費用や秤量の手間の節約などがある。各藩も藩札を発行したが、これは銀の回収など、藩の思惑によるものである。

 

綱吉政権では領国・民間の貨幣の排除と幕府通貨による統合、幕府金銀貨の品質低下、それと同時におこる名目貨幣化などが起きた。以上のことは民衆の利便を考えた政策ではなく、自らの都合によるものだった。

 

*次回の近世後期以降は私が内容を理解出来なくなる可能性が高いので、今回でこのシリーズは終わりかもしれません。