早島大祐『徳政令』Part.1

早島大祐2018『徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか』講談社現代新書.のまとめ。

徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか (講談社現代新書)

 日本中世に頻繁に出された徳政令とは、ある日突然借金が帳消しになってしまう事態のことである。ただし徳政令は時代とともに変化した。古代においては文字通り徳のある政治のことを指していた。それが鎌倉幕府の時代には御家人救済のための法令、さらに室町時代にいたって徳政一揆が求めた債務破棄に変容していく。この室町時代までは徳政は普通の人々にとって肯定的な内容のものであった。つまり借りたものを返さなくても良いという認識があった訳だが、16世紀、戦国時代になると一転して好ましくないものとされるようになった。そして借りたものは返すという現代にまで続く観念が定着することになる。本書は究極的にはなぜ借りたものを返すという認識が共有されるようになったのかという疑問を解決することを目的にしている。

 

 始めに今までの徳政令研究について言及している。笠松宏至氏は「元の持ち主に返す」という中世独特の価値観があったとして、借金により手放さざるを得なくなった土地を無償で元の持ち主に返す徳政令が、歓迎されたという見解を示した。また、勝俣鎮夫氏も笠松の論を継承した。しかし、今ではこれらの論には疑義が呈されている。つまり、中世において土地所有者は村落の上層の侍であり、実際の耕作者は土地が売られても変わらずその土地を耕作することが多かった。そうであれば元の土地を取り戻すという考えは生まれない。

 

 正長の徳政一揆は最初、近江国で起きたものが醍醐にまで波及した。そのとき幕府は義教政権に代わったばかりであったが、幕閣の連携のもとで速やかに鎮圧した。しかし、その後一揆勢は再び大規模に蜂起した。大和・河内・播磨などで連携した大規模なものだった。各地で同時期に一斉に蜂起できた裏には馬借・車借や海民の活躍があった。彼らのネットワークを利用することで情報を迅速に伝えることが出来たのだ。馬借とは神社に仕える神人や天皇家に仕える供御人の下で物資を輸送する者たちであった。これに対して幕府側は在京守護と各地領国の間のネットワークが十分に整備されていない国もあった。特に大和国興福寺が実質的に守護を担っており、室町幕府が徳政を禁止する法を出したのに対して独自に徳政令を出した。このように法は各所でばらばらに出された。各地の共同体も独自に徳政令を出した。