早島大祐『徳政令』Part.2

 早島大祐『徳政令』のまとめ二回目。

 

前回はこちら。

kyshami.hatenablog.com

 

今回は4~7章のまとめ。

 

 金融業が上手くいくためには二つの条件がある。1つ目は返済が十分に期待できる制度環境があること、2つ目が貸し倒れのリスクを上回るほどの借用需要の発生である。しかし、中世においては公権力は民事裁判には関わらないという傾向をもっていたため、第一の条件を満たすのは厳しかった。そこで金融業(当初は土倉と呼ばれた)は荘園経営を本業とし、金融業は副業であった。彼らの多くは寺社の下級僧侶であり荘園の経営やその荘園から上がってくる年貢の管理運用を仕事としていた。しかし14世紀には金融業を本業とする土倉が現われる。その背景には地域の金融が崩壊し、都の土倉たちに金融需要が舞い込んだことがある。

 

 それではなぜ、地域の金融業が崩壊する事態が起きたのか。それは足利義満による寺社の再興事業である。多くの土倉を配下においていた比叡山は義満の軍門に下り、以後の幕府からのきりのない負担の要求、つまり土倉役の徴収のきっかけを作ってしまった。この負担は最終的に京都近郊荘園の住民の負担へと繋がる。さらにそこに自然環境の変化による農業生産の低下も加わり、都と地方の格差が拡大した。そこで地方の人々が頼ったのが、借りたお金は返さなくても良いという法だった。

 

 さて正長の徳政一揆から13年後に嘉吉の徳政一揆が起きた。これは前回の一揆よりもさらに大規模であった。そしてついに幕府が初めて徳政令を出すに至る。この幕府の徳政令は、それまでは権門毎に独自の法が乱立していた状況だったにも関わらず、どの法令よりも勝る大法として認識されるようになった。その背景には訴訟を起こす人々によるより協力な法廷を求める動きがあった。既にそれぞれの権門の法廷は機能しなくなっていた。これに応えて幕府は義持の時代に民事裁判を司ることを宣言していた。この一般民衆を含めた民事訴訟制度の整備と、債務破棄という重要な内容をもっていたことから、徳政令は大法として認識されるようになったのだ。