安良城盛昭『太閤検地と石高制』Part.1

Amazonで大分昔の古本を購入してしまいました。

太閤検地と石高制 (1969年) (NHKブックス)

安良城盛昭1969『太閤検地と石高制』NHKブックス.

 

去年、大学の授業で各時代毎に主要な論文を読んでいく授業があったのですが、その中で私が最も感動した論文が「太閤検地の歴史的意義」でした。

 

それを書いたのが安良城盛昭さん。彼の卒業論文でありながら、当時の研究界に「太閤検地論争」という一大ブームを巻き起こした革命的論文です。

 

この本はその論文からさらに発展して書かれているようです。

 

以下、はじめに~第1章のまとめ。

 

はじめに

第一節 

 戦国時代の動乱は室町幕府の支配層内部の矛盾が、支配層と被支配層との対立に結びつき、「下克上」という形で荘園支配体制が崩れ、幕藩体制が成立した過程である。それは荘園貴族と守護大名の没落を生み出した。そしてこの時代を社会革命の時代と捉えている。

第二節

 マルクスは『資本論』の中で日本の江戸時代を「純封建制」と呼んでいるが、これには批判も多かった。しかし、筆者は将軍ー大名ー家臣という封建的ヒエラルキー、小農民経営が社会の基礎をなしていたことを認め、マルクスの指摘を支持している。

第三節

 前近代社会の経済的構造は土地所有保有関係によって規定されていると言えるが、江戸時代の土地の所有方法にはヨーロッパとは異なる特殊性が見られる。江戸時代の土地保有には経済史家と法制史家の間で対立があり、法制史家は将軍・大名・給人相互間に所領の売買が見られないこと、将軍や大名によって転封が行われることを以て百姓を土地所有者と見なしている。しかし、この見方には難点がある。つまり、戦国動乱期まで諸大名は領地を求めて戦ったのであり、幕藩体制社会の成立期に突然その所有権を失ったとは考えにくい点である。筆者は、幕藩体制社会における土地所有は将軍個人に掌握されており、大名、給人に対して一時的に分与されていたと捉えている。

 

第1章 中世末期の農民と武士

 中世末期の武士と農民の実態を探るために経済的発展度が高く戦国大名が成立しない近畿の東寺領上久世荘と、経済的発展度が低く戦国大名が成立している後北条氏相模国斑目郷を取り上げている。

 まず上久世荘について階級分化について検討している。1507年の算用帳から分かることとして、荘園制下の本来的年貢負担者であった名主が分解し、保有農耕地である「名主職」を集中する者が出現すると共に名主職を手放さざるを得なくなった者が出現したことを挙げている。その背景として荘園年貢と固定化と農業生産力の発展があるとし、名主職を集中した上層名主は名主職の一部を作職として貸し付け、新たに発生した余剰分を加地子と呼ばれる小作料として徴収した。上久世荘における割合を見てみると、82%は耕地保有規模一町未満の小農経営でありほとんどが作職のみをもっている。そして少数の上層農民が地主として加地子を徴収していた。この地主層は武士であると考えられ、東寺はこれらの上層民と協力することで小農民支配を実現していた。この地主の侍化は荘園領主の地主権保護→荘園領主の弱体化に原因がある。

 一方の北条氏領について。1569年における斑目郷の農民の階層構成について、多くが一町以上の耕地を保有した半奴隷的な非血縁労働力を取り込んだ大規模経営をしていたとする。ところで、戦国大名が家臣団を形成する上で重要なのが土地所有の大小に応じた軍役の統一的な賦課であった。そのために年貢・夫役の統一的賦課基準の設定も必要になった。後北条氏は検地を行い、この2つの課題を遂行しようとした。年貢は建前としては銭納であったが、(そこには精銭を得たいという後北条氏側の要望があり、貨幣経済の農村への浸透とは必ずしも一致するわけではないので)実際には現物納となった。北条氏領において上層民である侍たちは被官化され北条氏直属の家臣団を形成した。だが、侍身分でありながら百姓としても支配されるという矛盾は深刻なものであった。

『日本経済の歴史1 中世』Part.終

『日本経済の歴史1 中世』の第3章まとめ。

中世 11世紀から16世紀後半 (岩波講座 日本経済の歴史 第1巻)

 

前回はこちら。

 

kyshami.hatenablog.com

 

第1節 「中世の農業構造」西谷正浩

 中世成立期には大河川の中流域を中心に水田開発が進んだ。そして地域差を伴いながら粗放的な農業から集約農業へと発展した。ただし、収穫方法や農具、稲の品種などはすでに古代、もしくは中世成立期には中世の到達点に達しており、進歩は見られなかった。しかし、耕地の安定化と諸技術の組み合わせによって生産力は高まった。その一つの成果が二毛作であり西日本では社会に大きなインパクトを与えた。

 農業経営体について。古代には有力田堵が周辺の農民を動員して灌漑設備を作るなどして粗放的な農業をしていた。鎌倉時代には核家族が生活の基礎的単位を為していたが、農業の際には親族的な協同組織が経営集団となった。さらに土地の安定化と集約農業が進むと、独立した農業経営をする小農が主力を担うようになる。農繁期には外部の労働市場から銭貨で労働力を雇った。土地所有に関しては、中世前期には土地所有者の自作が、後期には地主制が主流であった。地主制においては地主と作人は契約書を交わして請負契約を結んだ。

 

第2節 「中世における不動産価格の決定構造」貴田潔

 土地価格にはその土地の収益により決まる実質価格と貨幣と実物との創刊によって決まる名目価格の二つがある。しかし、中世前期には土地収益の手がかりになる「加地子」が売券に書かれていないことが多いため、名目価値しか考えることができない。「鎌倉遺文」をもとにデータを抽出したところ、様々な特徴が分かる。まず、地域毎に土地価格を見てみると、近畿が圧倒的に高く、周辺の例えば中国地方と比べると10倍ほどの違いがある。つぎに、時代ごとに見てみると、13世紀から14世紀にかけて支払い方法が米建てから銭建てに変化している。ここにも地域差が認められる。そしてその転換期に土地価格は下落している。この理由は銭の需要拡大によるデフレーションである。最後に季節的サイクルを見ると、本年貢の納期である冬に売買件数が多くなる。また、稲作は季節に規定されていたため、価格は季節毎に変化し、例えば収穫前の夏期~秋期には書くが高騰した。

 

第3節「15~16世紀における土地売買の保証」早島大祐

 中世において土地は負債累積の結果として担保地が売却されるという事例が多かった。土地紛争に関する裁判について、公権力は介入に消極的であり(暴力を必ずしも伴わない)自力救済が慣行であった。また権門毎にそれぞれ訴訟の場があったことも問題であった。しかし足利持氏のときに民事訴訟制度の整備が一気に進んだ。その背景には南北朝の動乱によって荘園領主や在地住民らの負債が拡大し資金繰りが機能不全に陥っていた状況がある。そしてそれは仲間内ではなく関係性の薄い他者から借りる匿名的取引の増加につながる。これが所領に関するトラブルを表面化させ、訴訟制度整備の前提となった。こうして出来た幕府の裁判制度は、他の権門の裁判制度の機能不全に見切りを付けた人々による需要の高まりからその権威を拡大させた。さらに法制度の整備と共にそれを担う官僚制度も整備された。

 しかし、応仁の乱を経て幕府の基盤は不安定化した。訴訟費用が投資に見合わなくなった結果、土地の集積を停止する者が出たり、地方における地域慣行によって土地売買の保証をするようになった。これらを通して日本において契約の文書化が進んだ。

『日本経済の歴史1 中世』Part.3

『 日本経済の歴史1 中世』のまとめ。

kyshami.hatenablog.com

 前回は第2章をまとめたが、今回は都合により第5章まとめ。

 

第5章 中世の交易(綿貫友子)

第1節では中世の特徴として権門体制、職制社会、自力救済型社会の3つを挙げている。そしてこれらの特徴のために商人たちは、神人、寄人、供御人、公人などとして権門の配下となり競合者に対して優位に立てるような保護を求めた。それぞれの権門の保障は十全でなかったために複数の権門に従属することもあった。

 

第2節では対外貿易について述べている。中国からの渡来品である唐物は威信財としてて機能していた。遣唐使停止から鎌倉期にかけて中国との貿易は制限されていたが、民間の貿易商人の往来は活発であり、平氏をはじめ、その貿易に関わった人々は巨大な利益を得た。明の時代には倭寇の活動が顕著となったが、そこには明の海禁政策によって朝貢貿易から締め出された人々が含まれていた。

 

第3節では国内商業について述べている。まず貢納と交易とが切っても切れない関係にあると指摘されている。11世紀半ばには官物の賦課基準が地域の主要生産物を米現物に換算した上で3斗と定められた。これは交易を前提としている。また、貢納物輸送に商品を混載することで、津料・関銭を払わずに私的商売をすることも中世を通してあった。その後12世紀頃から神人や寄人が現われて商業活動を行った。さらに時代が進むと権門の権威が薄れるとともに、新興勢力として権門に属さなかったり各国戦国大名に保護されて商売を行う者が現われた。

 

第4節では主に市場の創設について論じている。鎌倉幕府は強引な買いたたきや行商人、人身売買、販売用の酒を禁止した。これに対して室町幕府は土倉の活動を積極的に認め、市場拡大策を採った。

『日本経済の歴史1 中世』Part.2

『日本経済の歴史 1中世』の第2章まとめ。中世 11世紀から16世紀後半 (岩波講座 日本経済の歴史 第1巻)

 第2章は第1節が中世貨幣(本多博之)、第2節が中世の金融(早島大祐)

 

第1節 中世貨幣ー渡来銭の時代

 

中国銭を中心とする渡来銭は12世紀半ば以降、貿易を通じて日本に大量に流入された。それは元朝の銅銭使用禁止の政策によって国外への流出が起きたためである。当初は朝廷も幕府も貨幣管理に関与していなかった。では、貨幣の信用は何が担保していたかと言えば実際の商業活動で有用だと判断されたからである。

 

これらの渡来銭の特徴として、南北朝期にかけての期間で主体をなす銭貨は 北宋銭であり、明銭である永楽通宝は16世紀後半以降になって関東、九州で急激に増加することなどが挙げられる。しかし、渡来銭も摩耗や欠損が激しくなり、国内外からの低品位の私鋳銭も流入すると、貨幣体系が混乱する。これに対応するために撰銭令などが出されることになった。一方、以前から通貨として機能していた米は安定性を保ち、その普遍的価値尺度性によって知行や軍役賦課の基準になっていった。それは豊臣秀吉の天下統一と太閤検地を伴って全国に広がっていった。

 

政府が銭貨を作りだしたのは江戸時代に入って半世紀が過ぎた頃である。それまでに幕府は低品位貨幣を排除し、京銭による貨幣統合を進めた。

 

メモ:渡来銭が流通するくらい大量に輸入されたこともすごいが、それよりも政府の信用や管理なしに流通していたのがすごい。やはり「神の手」に任せておけば市場経済は勝手に回るということだろうか。

 

第2節 中世の金融

中世では土倉・借上と呼ばれていた人々や、在地領主が金融業を行っていた。京都の土倉の大部分を占めたのは延暦寺の僧たちであった。彼ら荘園経営の副業として金融業を営んでいた。 商業の利益を元に金融業を営む者もおり、その代表例が山崎神人である。土倉・借上に比べて在地領主が荘園住人に貸す際は小規模なものであった。

 

ではなぜ金融業が必要だったか。それは当時の生活が農事暦に基づく季節性の高い収支構造を成していたからである。当初、土倉は社会的に賤視の対象となっていたが、朝廷や幕府による課税対象となったこともうけてその地位は上昇していった。そこにはまた金融需要の増加と祠堂銭という新たな資金源という理由もあった。

 

しかしこの金融業の好況も徳政によって終わりを迎える。極端な貸し付けが徳政一揆を招き、徳政令の発令によって金融業は低迷した。15世紀以降、応仁の乱の影響もあり、土倉は困窮を極める。金融の規模は縮小し、在地領主化していく。

『日本経済の歴史 Ⅰ中世』

岩波講座『日本経済の歴史 Ⅰ中世』岩波書店.2017のまとめ。

中世 11世紀から16世紀後半 (岩波講座 日本経済の歴史 第1巻)

序章~第5章まであり、それぞれ執筆者が異なるので一日一章ずつまとめていく。今日は1日目、第1章「人口と都市化と就業構造」斉藤修・高島正憲のまとめ。

 

第2節

ここでは人口史を見ている。日本の人口は古代から13世紀までは減少、停滞をしていた。それは大陸からの疫病の持ち込みに由来するものだった。大陸との交易の興隆と断絶によって人口も変化する。それが14世紀以降、緩やかに人口増加し始めた。応仁の乱の頃の日本人口は約1000万(今の東京23区の人口と同じくらい)になっている。次に飢饉の頻度と人口との関係を見ている。飢饉の減少が見られるのは17世紀以降であり、これは人口増加が始まる14世紀とは一致しない。このことは戦国大名の一円支配によって凶作が飢餓に繋がってしまう確率を低めたという説明を成り立たせる。ただし、人口は14世紀以降に増加したが、それが即経済成長に繋がるわけではないとしている。

 

第3節

ここでは都市の発展について見ている。14世紀頃から定住性が高まり、集村化が進行した。特に中世中期以降の宿駅関係都市と政治関係都市の大幅な増加が認められる。ただし、それぞれの都市は小規模であり、京都や鎌倉以外で人口一万人をこえる都市は少なかった。

 

第4節

ここでは就業構造の変化を見ている。まず職人歌合から職業の種類の増加をまとめている。各産業のパーセンテージを出しているがそれは無意味だろう。選んだ職種には意図があるだろうし、職業が分化したともいえる。そもそも人口比ではないからここから分かることは少ない。繊維産業については16世紀には近世的な分業体制への動きがあったが、特にめぼしい変化として染料の市場が登場したことと木綿の導入が挙げられている。最後に17世紀への展望に触れて終わっている。