『日本経済の歴史1 中世』Part.2

『日本経済の歴史 1中世』の第2章まとめ。中世 11世紀から16世紀後半 (岩波講座 日本経済の歴史 第1巻)

 第2章は第1節が中世貨幣(本多博之)、第2節が中世の金融(早島大祐)

 

第1節 中世貨幣ー渡来銭の時代

 

中国銭を中心とする渡来銭は12世紀半ば以降、貿易を通じて日本に大量に流入された。それは元朝の銅銭使用禁止の政策によって国外への流出が起きたためである。当初は朝廷も幕府も貨幣管理に関与していなかった。では、貨幣の信用は何が担保していたかと言えば実際の商業活動で有用だと判断されたからである。

 

これらの渡来銭の特徴として、南北朝期にかけての期間で主体をなす銭貨は 北宋銭であり、明銭である永楽通宝は16世紀後半以降になって関東、九州で急激に増加することなどが挙げられる。しかし、渡来銭も摩耗や欠損が激しくなり、国内外からの低品位の私鋳銭も流入すると、貨幣体系が混乱する。これに対応するために撰銭令などが出されることになった。一方、以前から通貨として機能していた米は安定性を保ち、その普遍的価値尺度性によって知行や軍役賦課の基準になっていった。それは豊臣秀吉の天下統一と太閤検地を伴って全国に広がっていった。

 

政府が銭貨を作りだしたのは江戸時代に入って半世紀が過ぎた頃である。それまでに幕府は低品位貨幣を排除し、京銭による貨幣統合を進めた。

 

メモ:渡来銭が流通するくらい大量に輸入されたこともすごいが、それよりも政府の信用や管理なしに流通していたのがすごい。やはり「神の手」に任せておけば市場経済は勝手に回るということだろうか。

 

第2節 中世の金融

中世では土倉・借上と呼ばれていた人々や、在地領主が金融業を行っていた。京都の土倉の大部分を占めたのは延暦寺の僧たちであった。彼ら荘園経営の副業として金融業を営んでいた。 商業の利益を元に金融業を営む者もおり、その代表例が山崎神人である。土倉・借上に比べて在地領主が荘園住人に貸す際は小規模なものであった。

 

ではなぜ金融業が必要だったか。それは当時の生活が農事暦に基づく季節性の高い収支構造を成していたからである。当初、土倉は社会的に賤視の対象となっていたが、朝廷や幕府による課税対象となったこともうけてその地位は上昇していった。そこにはまた金融需要の増加と祠堂銭という新たな資金源という理由もあった。

 

しかしこの金融業の好況も徳政によって終わりを迎える。極端な貸し付けが徳政一揆を招き、徳政令の発令によって金融業は低迷した。15世紀以降、応仁の乱の影響もあり、土倉は困窮を極める。金融の規模は縮小し、在地領主化していく。