黒田明伸『貨幣システムの世界史』Part.終

黒田明伸『貨幣システムの世界史』のまとめ。

 

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第4章

 ここではまず中国の銅銭使用について見ている。歴代の中国王朝は統一された銭貨を発行して民間に受領させようとしたが、各地で私鋳銭が作られてその浸透は上手くいかなかった。人々に受領させるためには以前と同じ質で発行する必要があった。そんな銅銭は運搬に多大な費用がかかったため、紙幣が誕生した。政府の発行した紙幣は高額であり、また紙幣に頼って銅銭の発行量を減らしたため、民間では小額面の通貨が誕生した。そして16世紀以降、世界的な銀建ての時代に入り、地域兌換性に優れた銀が用いられることになる。

 

第5章

 中世の中国では宋銭が基準銭として扱われ、主に資産の保有のために使われた。日常取引の場では私鋳銭や明銭などが使われていた。私鋳銭は精銭とともに日本にも流入した。ところが1566年に銭の密貿易の取り締まりがなされた結果、日本への銭供給が途絶え、それまでの銭建ての価値表示が消え米建て表示になる。日本では中世の当初、京都にいる領主の元に年貢を輸送する際の遠隔地間取引として宋銭が受容されていたが、応仁の乱を契機として京都の権力集中状態が崩れる。そして日常的取引のための私鋳銭が輸入されるようになった。

 

第6章

 日常的取引に使用される通貨はその通用する範囲をどのようにして決められているのか。中国では現地商人が独自に現地通貨を発行することで季節性を帯びる農民の需要に応えていた。これが地域流動体の安定性を形成する空間である。一方、西洋では日常的取引では通貨が用いられるのではなく、信用取引によるところが多かった。その信用取引を保証しているものは地域の法廷であった。

 

第7章

 これまでに述べられてきた地域的通貨は20世紀に至って世界的に一気に退場していく。それは輸出用の作物を集荷・移転に政府紙幣が使用されるようになったからだ。

 

終章では今までのまとめとして、貨幣は交換の円滑化としてではなく、「時の交換」のために発生したとしている。現在では認識しにくいが歴史的に見れば本位制のもとで一国一通貨が成立したのは最近のことで、貨幣の二重性は当たり前のことだったということがよく理解出来た。中国の銭貨使用の影響はかなり大きく、中世日本は宋銭の輸入に頼り切っていた。よって、当時日本の経済事情を見るときには環シナ海の動きを全体として考えることは重要だと思う。

黒田明伸『貨幣システムの世界史』Part.1

黒田明伸2003『貨幣システムの世界史』岩波書店.のまとめ。

貨幣システムの世界史―「非対称性」をよむ (世界歴史選書)

日本の経済学史の本を読んでいると必ずと言っても良いほど引用されているので私も読もうと思ってbook offで買いました。以下、まとめ。

 

 序章

 現在では日本でも共通で円という単位で一つの通貨が流通しているので想像しにくいが、歴史的に見れば一つの国内で複数の通貨が共存していることは多い。しかも複数の通貨それぞれは使用される場所に応じて異なる評価のもとで取引された。例えば地方の日常取引の場では小さい額面の通貨のほうが評価が高いし、逆に上層の都市との交易に関わる場では高額の金銀貨のほうが価値が高い。

 

1章

 ここではマリア・テレジア銀貨を取り上げている。マリア・テレジア銀貨は18世紀中頃に鋳造され始めたオーストリアの銀貨だが、オーストリア本国で使用されなくなった後もなんと20世紀に至るまでアフリカ・西アジアにおいて使われ続けた。1935年までオーストリアが発行していたが、その後はイタリアやフランス、イギリスが鋳造権を得て発行した。ただし、マリア・テレジア銀貨は高額通貨で日常取引では銅貨などが使われた。通貨の棲み分けが出来ていたのだ。マリア・テレジア銀貨はアラビア半島のアデンを中心としてスーダンエチオピアを環流していた。環流と言っても各地で退蔵され容易には戻ってこない。そのため、毎年毎年追加で大量に銀貨を供給する必要があった。

 

2章

 ここでは1章のマリア・テレジア銀貨とは対称的な地域内で流通した通貨を見ている。地域内の日常的取引で使用された通貨は往々にして貨幣素材の価値や公権力による保証を必要としない。それではどのような力が国家の発行する通貨ではない私鋳銭などを流通させるのか。それは地域市場にストックされた商品全体の有する販売可能性である。飢饉などによって生じた米の高い需要が私鋳銭を人々に受領させるのだ。

 中国や日本など東アジアでは主に銅貨が、西欧では主に金銀貨が用いられたが13世紀にモンゴル帝国が東西を結びつけたことをきっかけにして銀の流通と少額貨幣の普及が起きた。そのモンゴル帝国が崩壊すると銀の流通は滞る。

 

3章

 使用されている貨幣が地方毎に異なるというのは、商業の未発達を意味しない。18世紀以降のインドでは日常取引の場では貝貨が、特定の商品の高額取引では銀貨が、交易や納税などにはさらに別種の銀貨が使われていた。このように通貨が競存していたわけだが、銀貨の流通量が減ると貝貨の相場が高まるというわけではない。それぞれの通貨はそれぞれ独立した流通の回路をもっており、取引需要が高くなれば(例えば貝貨は季節によって取引量がかなり変動した)その相場は高くなる。

 

ここから感想。日本中世において国家の関与しないところで渡来銭が使用されていたことを最近知って本当にそんなことあり得るのか?と思っていたが、世界の事例を見てみると、国家の関与なしに他国の通貨が流通することは普通の現象だったようだ。むしろつい最近までそうであったとは驚きだ。また通貨が競存しているということは、日本中世において近畿では宋銭が、関東では明銭が好まれたというような地域差も説明できるだろう。

早島大祐『徳政令』Part.終

高木久史『徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか』のまとめ最終回。

 

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 徳政令に関連して分一徳政令という奇妙な法令が誕生した。その背景には室町幕府の財源確保という目的があった。徳政令により経営縮小を余儀なくされた京都の土倉に課していた土倉役が徴収できなくなったのだ。当初、この訴訟を担当する行人はたった1人だけだったが、後に訴訟制度の整備がなされ世襲制の官僚政治が誕生した。

 

 9章以降、徳政の変質について述べられている。徳政令によってそれまでに没落していた地方荘園領主が復活を遂げた。そして一気に債権者側に回ることになる。ただし、紙面無しの牧歌的な契約では徳政令によって無償で取り戻されてしまう。それを防ぐために売券という形でお金を貸した。永代売買地は徳政令の適用対象外だったからである。

 

 在地領主が債権者側に回ると一揆勢の内容も変化した。それまでの構成主体は馬借・在地領主・荘園住民だったのが、馬借・牢人・荘園住民になった。ここでの牢人とは主家を失った武士のことである。さらに応仁の乱直前に至るとさらに徳政を求める主体は変化する。つまり、戦争に備えて京都に集まった武士が生活の維持のために土倉・酒屋を破壊して質物を奪ったことに対して、幕府は債務の破棄と見なして徳政令を出したのだ。ここに至って徳政令は戦争に関わるものとして忌避すべき法だと認識されるようになる。

 

 また、徳政令は実際の経済活動に多大な影響を与えていた。簡潔に言えば、相手を信頼して貸し付けていたはずのお金が債務者側の私利私欲によってある日突然徳政令を盾にして破棄されてしまうことで、共同体内での信頼関係が完全に崩れてしまったのだ。在地領主は徳政落居状や徳政指置状などを作成することで徳政を防ごうとしたが、そのコストが領地の維持コストを上回ってしまうと、金融業から手を引くことが多かった。

 

 こうして誰もが徳政を忌避する傾向が生まれた。そして安定した強力な公権力が求められた。その求めに応じて登場したのが織田信長だ。彼は石高に応じて動員する人員を定め、織田家の法度を全国に布いていった。こうして法と法の対立という中世の特質は消えた。同時に借金は返さなければならないという社会が誕生した。

早島大祐『徳政令』Part.2

 早島大祐『徳政令』のまとめ二回目。

 

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今回は4~7章のまとめ。

 

 金融業が上手くいくためには二つの条件がある。1つ目は返済が十分に期待できる制度環境があること、2つ目が貸し倒れのリスクを上回るほどの借用需要の発生である。しかし、中世においては公権力は民事裁判には関わらないという傾向をもっていたため、第一の条件を満たすのは厳しかった。そこで金融業(当初は土倉と呼ばれた)は荘園経営を本業とし、金融業は副業であった。彼らの多くは寺社の下級僧侶であり荘園の経営やその荘園から上がってくる年貢の管理運用を仕事としていた。しかし14世紀には金融業を本業とする土倉が現われる。その背景には地域の金融が崩壊し、都の土倉たちに金融需要が舞い込んだことがある。

 

 それではなぜ、地域の金融業が崩壊する事態が起きたのか。それは足利義満による寺社の再興事業である。多くの土倉を配下においていた比叡山は義満の軍門に下り、以後の幕府からのきりのない負担の要求、つまり土倉役の徴収のきっかけを作ってしまった。この負担は最終的に京都近郊荘園の住民の負担へと繋がる。さらにそこに自然環境の変化による農業生産の低下も加わり、都と地方の格差が拡大した。そこで地方の人々が頼ったのが、借りたお金は返さなくても良いという法だった。

 

 さて正長の徳政一揆から13年後に嘉吉の徳政一揆が起きた。これは前回の一揆よりもさらに大規模であった。そしてついに幕府が初めて徳政令を出すに至る。この幕府の徳政令は、それまでは権門毎に独自の法が乱立していた状況だったにも関わらず、どの法令よりも勝る大法として認識されるようになった。その背景には訴訟を起こす人々によるより協力な法廷を求める動きがあった。既にそれぞれの権門の法廷は機能しなくなっていた。これに応えて幕府は義持の時代に民事裁判を司ることを宣言していた。この一般民衆を含めた民事訴訟制度の整備と、債務破棄という重要な内容をもっていたことから、徳政令は大法として認識されるようになったのだ。

早島大祐『徳政令』Part.1

早島大祐2018『徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか』講談社現代新書.のまとめ。

徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか (講談社現代新書)

 日本中世に頻繁に出された徳政令とは、ある日突然借金が帳消しになってしまう事態のことである。ただし徳政令は時代とともに変化した。古代においては文字通り徳のある政治のことを指していた。それが鎌倉幕府の時代には御家人救済のための法令、さらに室町時代にいたって徳政一揆が求めた債務破棄に変容していく。この室町時代までは徳政は普通の人々にとって肯定的な内容のものであった。つまり借りたものを返さなくても良いという認識があった訳だが、16世紀、戦国時代になると一転して好ましくないものとされるようになった。そして借りたものは返すという現代にまで続く観念が定着することになる。本書は究極的にはなぜ借りたものを返すという認識が共有されるようになったのかという疑問を解決することを目的にしている。

 

 始めに今までの徳政令研究について言及している。笠松宏至氏は「元の持ち主に返す」という中世独特の価値観があったとして、借金により手放さざるを得なくなった土地を無償で元の持ち主に返す徳政令が、歓迎されたという見解を示した。また、勝俣鎮夫氏も笠松の論を継承した。しかし、今ではこれらの論には疑義が呈されている。つまり、中世において土地所有者は村落の上層の侍であり、実際の耕作者は土地が売られても変わらずその土地を耕作することが多かった。そうであれば元の土地を取り戻すという考えは生まれない。

 

 正長の徳政一揆は最初、近江国で起きたものが醍醐にまで波及した。そのとき幕府は義教政権に代わったばかりであったが、幕閣の連携のもとで速やかに鎮圧した。しかし、その後一揆勢は再び大規模に蜂起した。大和・河内・播磨などで連携した大規模なものだった。各地で同時期に一斉に蜂起できた裏には馬借・車借や海民の活躍があった。彼らのネットワークを利用することで情報を迅速に伝えることが出来たのだ。馬借とは神社に仕える神人や天皇家に仕える供御人の下で物資を輸送する者たちであった。これに対して幕府側は在京守護と各地領国の間のネットワークが十分に整備されていない国もあった。特に大和国興福寺が実質的に守護を担っており、室町幕府が徳政を禁止する法を出したのに対して独自に徳政令を出した。このように法は各所でばらばらに出された。各地の共同体も独自に徳政令を出した。