早島大祐『徳政令』Part.終

高木久史『徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか』のまとめ最終回。

 

前回はこちら。

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 徳政令に関連して分一徳政令という奇妙な法令が誕生した。その背景には室町幕府の財源確保という目的があった。徳政令により経営縮小を余儀なくされた京都の土倉に課していた土倉役が徴収できなくなったのだ。当初、この訴訟を担当する行人はたった1人だけだったが、後に訴訟制度の整備がなされ世襲制の官僚政治が誕生した。

 

 9章以降、徳政の変質について述べられている。徳政令によってそれまでに没落していた地方荘園領主が復活を遂げた。そして一気に債権者側に回ることになる。ただし、紙面無しの牧歌的な契約では徳政令によって無償で取り戻されてしまう。それを防ぐために売券という形でお金を貸した。永代売買地は徳政令の適用対象外だったからである。

 

 在地領主が債権者側に回ると一揆勢の内容も変化した。それまでの構成主体は馬借・在地領主・荘園住民だったのが、馬借・牢人・荘園住民になった。ここでの牢人とは主家を失った武士のことである。さらに応仁の乱直前に至るとさらに徳政を求める主体は変化する。つまり、戦争に備えて京都に集まった武士が生活の維持のために土倉・酒屋を破壊して質物を奪ったことに対して、幕府は債務の破棄と見なして徳政令を出したのだ。ここに至って徳政令は戦争に関わるものとして忌避すべき法だと認識されるようになる。

 

 また、徳政令は実際の経済活動に多大な影響を与えていた。簡潔に言えば、相手を信頼して貸し付けていたはずのお金が債務者側の私利私欲によってある日突然徳政令を盾にして破棄されてしまうことで、共同体内での信頼関係が完全に崩れてしまったのだ。在地領主は徳政落居状や徳政指置状などを作成することで徳政を防ごうとしたが、そのコストが領地の維持コストを上回ってしまうと、金融業から手を引くことが多かった。

 

 こうして誰もが徳政を忌避する傾向が生まれた。そして安定した強力な公権力が求められた。その求めに応じて登場したのが織田信長だ。彼は石高に応じて動員する人員を定め、織田家の法度を全国に布いていった。こうして法と法の対立という中世の特質は消えた。同時に借金は返さなければならないという社会が誕生した。