高木久史『通貨の日本史』Part.終

 高木久史2016『通貨の日本史』中公新書.のまとめ、最終回(次の「幕末維新~現代」は理解出来なそうなので近世で終わり。そして今回の江戸期も難しいので短め)。

 

前回はこちら。

kyshami.hatenablog.com

 

江戸期には三大改革を始め、多くの改革が行われたが、その改革の一つは通貨政策であった。基本的には荻原重秀の改革路線、つまり金銀貨の質を下げて旧貨を回収することで幕府の財源とする方向性で進められた。これは名目貨幣化を促進させる。ただ、新井白石が唯一、良貨に改めた。その目的として、インフレ対策がある。良貨を発行して供給量を減らせば物価が下がると考えたのだ。それ以外にも白石には通貨の品質がその国の統治状況を反映するという考えがあり、外国に対する日本の威信のために良質化した。しかし、結果としては物価と共に米価が下がった。米価が下がると米で給与を得てそれを銭に交換する付子にとっては大打撃である。こうして武士の購買意欲が下がると町人の所得も減る。こうしてデフレが起きた。また、米安の背景には人口の停滞と米生産量の増加もあった。米価の引き上げが急務となるなかで登場したのが米将軍徳川吉宗である。彼は白石の正徳金銀よりも質の低い元文金銀を発行し、通貨供給量を増やすことで米高に導いた。それとともに銭も増産した。しかし国内の銅の生産量が減ったことで銅地金の価格が上がったという問題点があった。これに対処するため、鉄製の寛永通宝を製造した。

 

 田沼時代にはそれまでの幕府の金銀貨と異なる明和5匁銀を発行した。秤量貨幣ではなく計数貨幣である。続いて明和二朱銀(南鐐二朱銀という名前で知られる)を発行した。これは8枚で金小判1枚に交換できるものであり、小さい額のため民間に普及していった。金に交換できる=近代の金本位制に一歩近づいた、ということだ(近代の兌換紙幣の銀バージョン)。田沼はまた、銭高を抑えるために銭を増産した。新しく黄銅製で額面が4文の銭を発行した。それまでは銭は全て1文に統一されていたがこの4文銭で等価値交換が成り立たなくなった。

 

 幕府は通貨を増産したが、それでも需要には見合わなかった。それを補充するものとして藩札や私札がかなり多く流通していた。それまでの藩札は銀建てであったが、民間の銭使用の増加に伴い、銭建ての札も増えた。

 

 松平定信の一連の改革の結果起きたデフレに対処するために新たな規格の貨幣が大量生産された。質を悪くすることで幕府は発行益を得た。しかし、物価高が進みすぎると庶民による商人への暴動が起きる。水野忠邦は金銀銭貨の製造停止をして物価安を目指した。

 

北海道では江戸時代までなかなか銭使用が定着せず物々交換が行われていた。銭は装飾品だった。一方、沖縄では王府が無文銭を発行したりもしたが主には寛永通宝が流通した。

高木久史『通貨の日本史』Part.2

高木久史『通貨の日本史』のまとめPart.2です。

 

前回はこちら。

kyshami.hatenablog.com

 

今回は2章近世前期。

江戸の貨幣制度は中世にその起源を求めることが出来る。例えば、銭の国内生産は各地で行われ、無文銭などが登場する。形態としては商人が職人を雇って製造させるかたちだ。金貨は後藤家が天正大判を製作した。この後藤家の系譜が江戸幕府における金貨製造を担うことになる。銀貨については石見銀山での銀の大増産が起き、16世紀後半に銀貨の使用が広まったが、それ以前は銀は専ら輸出されていた。金は額面が高く、高額商品取引の場でしか用いられなかったが、銀は庶民にも使われた。

 

 江戸時代の三貨制度のさきがけとして春日大社による金銀銭三貨の比価を示した法令がある。また、近世の銭政策を先取りした浅井長政の撰銭令がある。それは破銭と無文銭以外はすべて基準銭として等価値で使えというものである。従来の撰銭令は銭種によって価値を変えていた。また、信長は一部の低品質銭を除いた全ての銭を「ビタ」として基準銭化した。江戸期においてはビタと寛永通宝は等価で交換された。

 

 秀吉は関東を征服した後、関東で好まれて使われていた永楽通宝とビタの比価を定め、通貨秩序の全国統一を試みた。また、金山銀山の支配、銀貨、金貨の発行を開始した。ただし、以上の浅井や信長の全ての政策は当時の社会慣行を追認した形である。

 

家康は1601年頃に慶長金銀を発行した。金貨は小判と一分金のセットで計数貨幣、銀貨は丁銀と小玉銀のセットで秤量貨幣であった。しかしこれらは社会の需要を満たせず、それぞれの領国や民間で金銀貨幣が作られた。慶長金銀を発行した段階では幕府は銭を発行していない。ビタ(京銭とも呼ばれた)を基準銭として金銀との比価を定めた。

 

 ついに1636年に古代以来、政権が銭貨を発行した。寛永通宝だ。その背景には参勤交代による江戸での銭需要の高まり、銅山開発ラッシュがある。家綱の時代にはビタの通用を停止し、寛永通宝のみを認めた。

 

17世紀には紙幣も登場した。それはまず私札として現われた。それは銀貨単位の額面が書かれることが多かったが、その背景には銭不足、銀貨の輸送費用や秤量の手間の節約などがある。各藩も藩札を発行したが、これは銀の回収など、藩の思惑によるものである。

 

綱吉政権では領国・民間の貨幣の排除と幕府通貨による統合、幕府金銀貨の品質低下、それと同時におこる名目貨幣化などが起きた。以上のことは民衆の利便を考えた政策ではなく、自らの都合によるものだった。

 

*次回の近世後期以降は私が内容を理解出来なくなる可能性が高いので、今回でこのシリーズは終わりかもしれません。

高木久史『通貨の日本史』Part.1

高木久史2016『通貨の日本史 無文銭銀、富本銭から電子マネーまで』中公新書のまとめ。

通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで (中公新書)

第1章 中世~古代

日本では古代から社会慣行として布、米、塩が通貨として使われていた。金属貨幣では天智天皇の治世には円形で中心に孔のある無文銭銀が存在していた。秤が八達していない当時において無文銭銀は計数貨幣だった。その次の天武天皇は銀銭(無文銭銀)の使用を禁止し、銅銭=富本銭の使用を命じた。富本銭を国が発行した理由は藤原京の建設に際して労働者への賃金や物資購入費用に充てるためだった。その後に発行された和同開珎銅銭、銀銭が発行されたのも同様の理由による。建設に携わって銭を得た労働者や官吏は商人や地方豪族に銭を支払って必要物資を得る。商人や地方豪族は朝廷に銭を支払い、納税義務を完了したり蓄銭叙位令によって位階を得る。このように銭が循環していたが、これは政府側の負債から回路が始まるという点で和同開珎は政府の債務証書であると言える。その後、皇朝12銭と呼ばれる銭が発行されていったが、政治的デモンストレーションの要素を含んでいた。銭を発行する際に政府は以前の銭の10倍の価値を新銭に与えたが、人々が新銭を嫌ったために最終的に旧銭と同じ市価に下がってしまった。その後平安京の建設が一段落したことや、銅の国内生産が不調になったこともあり、銭の発行は停止された。最後の乾元大宝が発行されたのは958年。それ以後は銭の市価は金属そのものの価値にまで下がった。11世紀には銭に代わって米や布が通貨として表に現われた。ただし、中世の兆しとして、博多での宋銭の流通、切符系文書の登場が見られた。

 

 中世には3回の中国戦の流入の波があった。一つ目が南宋からの波である。その背景には南宋で紙幣が普及し銭への需要が減ったことがある。この時に日本に流入したのは南宋の一つ前の北宋の銭である。平清盛は銭の使用を解禁したが、鎌倉期には朝廷・幕府ともに使用に消極的だった。13世紀前半に中国銭流入の第二の波、金からの流入が起きた。代銭納の普及もあり鎌倉幕府も銭の使用を認めた。13世紀後半に元からの第三の波が訪れる。この背景には元朝の銭使用禁止、紙幣専用政策があった。しかし日本での需要は供給を上回り、価値蓄蔵を目的として銭を地中に隠す行為が見られた。14世紀には明の海禁政策もあり銭不足は深刻となった。この事態に対応して国内で模造銭が作られた。15世紀後半には撰銭と呼ばれる特定の銭種を忌避する行為が見られた。しかし銭の量は圧倒的に不足していたため、嫌われた銭を減価して使用していた。減価された銭は庶民の日常取引、一方の基準銭は高額・遠隔地間取引の際に用いられるなど階層化が進んだ。大名たちは相次いで撰銭令を出し、基準銭の確保、家臣の食糧売買の際の銭の購買力の保証をしようとした。

安良城盛昭『太閤検地と石高制』Part.終

安良城盛昭『太閤検地と石高制』のまとめ最終回。

 

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石高制の成立は太閤検地の開始時期である天正10年というのが通説であったが、実はそれ以前に成立していた。耕地に課されて実際に収取される年貢は多くが米であり、残りが大豆である。これは秀吉の天下統一が武力をもって行われたものであったことを反映している。つまり米=人間、大豆=馬の食料となるように、石高制は戦闘に必要な兵糧需要にこたえるために採用されたのだ。石高制の背景にはこの武力による統一という要因の他にも貨幣経済の発展という要素もあった。領主側は年貢として得た米を換金する必要があるため、石高制の浸透は経済発展を伴って進んだ。一方、農民の手元には商品となり得る米をできるだけ手元に残させないように収取された。また、太閤検地によって秀吉一人の手に土地所有権が握られ、転封と兵農分離が同時に進んだ。

 

「むすびにかえて」では今までのまとめが書かれている。筆者は1960年代当時主流であったマルクス主義歴史学者であり、基本的には経済の発展によって下克上という社会革命が行われたと考えている。戦国動乱期には農民の家族形態は傍系を含む複合大家族から直系親中心の小家族に移行した。その背景には生産力の発展があり、小家族でも再生産が可能になった。このことには庶民の衣料が麻から木綿に移行したことも照応している。

安良城盛昭『太閤検地と石高制』Part.2

安良城盛昭『太閤検地と石高制』のまとめのPart.2

 

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豊臣秀吉の年貢搾取の体系は天下統一以前にできあがっていた。畿内では太閤検地が繰り返され、その原型が作られていく。例えば収穫量の3分の2を領主分、3分の1を百姓分にするという基準や、百姓の土地緊縛、耕作強制が定められていった。

 

さて、秀吉が武力によって天下統一を達成するための条件は3つあった。①根拠地において強力な家臣団を培養すること、②根拠地において兵糧米を確保すること、③根拠地における農民の反抗、逃散を防ぐことである。しかし、①②に対して③は絶対的に矛盾してしまう。なぜなら、①②を達成するために農民から出来るだけ多くの年貢を搾取する必要があったが、それでは③の反抗や逃散が起きる可能性が高くなるからだ。この矛盾を解決するために行われたのが太閤検地である。

 

この③が起きかねないというのは佐々成政統治下の肥後国の事例で明らかだ。佐々は強制的に検地を行った結果、国人一揆を誘発させた。よって太閤検地は、秀吉の天下統一過程においては細心の注意を払って進められた。

 

太閤検地によって諸大名たちは自身の領地に秀吉の権力を介入させてしまうと同時に、自らの家臣に対して強固な支配権を行使できるようになった。それまでは名目的な主従関係だったが、大名が意のままに所領替えのできるようになったことにより実質的な主従関係が生まれた。

 

ところで、前回では農民の階層分化(地主制)について扱ったが、太閤検地によってそれはどう変化したのか。実は太閤検地では実際に耕作している人を検地帳に載せ、「作あい」つまり地主・小作関係を否定した。この地主制の否定が上記の①②と③の矛盾を解消した。つまり、下克上の推進力となっていた地主的=侍的農民と零細小農民の一体化を「領主=百姓」の関係に替えたのだ。こうして小家族形態(核家族)による小農民が創出された。

 

小農民の中には作人とは背景を異にする存在もいた。それが下人である。はるか律令時代にまで遡ると彼らは奴婢と呼ばれていた。それが戦国動乱期に名子・被官と呼ばれる身分に進化した。彼らは小家族を形成して耕地を与えられていたが、夫役の代償として名子主から与えられる給与に半ば依存していたため、半奴隷的存在といえる。これが太閤検地に際して百姓身分に上昇させられ、奴隷解放が起きた。人身売買の禁止もこのことを反映している。

 

百姓経営数の維持、増大を前提としている幕藩体制下の幕府・諸藩にとっては、人身売買や譜代下人の存在は否定すべきものであった。人身売買は年貢を払えなくなった百姓が他国に身売りして起きる場合が多かったが、それを防ぐために年期奉公制(年月を決めて下人になり、年が経てば百姓に戻れる)や譜代下人の百姓化が進められた。