安良城盛昭『太閤検地と石高制』Part.終

安良城盛昭『太閤検地と石高制』のまとめ最終回。

 

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kyshami.hatenablog.com

 

石高制の成立は太閤検地の開始時期である天正10年というのが通説であったが、実はそれ以前に成立していた。耕地に課されて実際に収取される年貢は多くが米であり、残りが大豆である。これは秀吉の天下統一が武力をもって行われたものであったことを反映している。つまり米=人間、大豆=馬の食料となるように、石高制は戦闘に必要な兵糧需要にこたえるために採用されたのだ。石高制の背景にはこの武力による統一という要因の他にも貨幣経済の発展という要素もあった。領主側は年貢として得た米を換金する必要があるため、石高制の浸透は経済発展を伴って進んだ。一方、農民の手元には商品となり得る米をできるだけ手元に残させないように収取された。また、太閤検地によって秀吉一人の手に土地所有権が握られ、転封と兵農分離が同時に進んだ。

 

「むすびにかえて」では今までのまとめが書かれている。筆者は1960年代当時主流であったマルクス主義歴史学者であり、基本的には経済の発展によって下克上という社会革命が行われたと考えている。戦国動乱期には農民の家族形態は傍系を含む複合大家族から直系親中心の小家族に移行した。その背景には生産力の発展があり、小家族でも再生産が可能になった。このことには庶民の衣料が麻から木綿に移行したことも照応している。