「ゴーリキー短編集」

上田進、横田瑞恵訳編「ゴーリキー短編集」岩波文庫の感想を書いていきます。

ゴーリキー短篇集 (岩波文庫 赤 627-1)

 

収録されているのは「イゼルギリ婆さん」「チェルカッシ」「秋の一夜」「二十六人の男と一人の少女」「鷹の歌」「海つばめの歌」「零落者の群」の7編であり、ほとんどが1890年代に書かれたゴーリキーの初期の短編である。

 

どの短編にも共通して言えることは、まず風景描写から入り、それから人間たちの会話が繰り広げられていく点だ。そして多くの作品におけるその始まりの風景は広大な海辺であり、岸には波が打ち寄せてくる。代表作の「どん底」にはないようなおとぎ話めいた話もたくさん出てくるのだが、それらは現実のしわがれた老人によって語られる。現実とおとぎ話が上手く混ざり合っている。

 

ここでは私が感動した「秋の一夜」についてだけ書こうと思う。

 

この作品はあまり有名ではないのかもしれないが、私はとても好きだ。ゴーリキーに珍しいハッピーエンドとも捉えられる作品だ。今までに読んできたゴーリキー作品の中で一番好きかも知れない。

 

あらすじとしては、まず主人公の少年が10月の夕暮れに船着き場近くの町で少女に出会う。その少女は少年と同年齢くらいで、パン屋に忍び込もうとしており、少年はそれを手伝う。仕事は上手くいき、その後、二人は寒く雨の降りしきる一夜を岸でひっくり返っているボートの下で明かす。

 

この少年は名前が一切出てこず、「私」と表現されている。おそらくゴーリキー自身であろう。一方、少女は17歳くらいでパン焼き職人の情婦である。二人とも食うのにも困っている身だ。最終的にボートの下で一夜を明かすことになるのだが、そこで会話が繰り広げられる。少女は自分自身の確固とした考えをもっており、この世がつくづく嫌になっている。だが、それは投げやりな調子ではなく、考えた末の確信なのだ。彼女の言葉は力強い。

 

世の中なんてものが、つくづく嫌になっちまったわ!・・・・・・ー一語一語を区切って、はっきりと、彼女は確信のこもった調子でいった。(p152)

 

いっそ死んじまったら、とも思うんだけれど・・・・・・ーナターシャがまた言った。こんどは、まえよりも低い、物思わしげな調子であった。けれどやっぱりその言葉には、泣言めいたひびきはちっともなかった。確かにこの人間は、人生に思いをこらし、自分の身の上を振り返ってみて、そのあげく一歩一歩と、社会の侮辱から自分の身をまもるためには「死んじまう」ことよりほかには道がないという確信に到達したものらしい。(p153)

 

少女はパン焼き職人によってひどい目に遭わされ、何もかも無くしてしまったのだ。そんな彼女は世の中の男というものをひどく嫌い、みんな死んでしまえと罵る。

 

しかし、少年が寒さのために気分が悪くなってきたのを見るや、心配そうな優しい声をかけ、自分の身体で少年を暖めてあげるのだ。そしてじきに仕事も見つかり、良い日が来るからとなだめる。少女の母性にふれて少年は泣き出してしまう。それは彼女の思いやりに触れたからだ。さらに言えば、少年は革命を夢見ていたにもかかわらず、世の中に居場所のない少女に励まされ、それに対して自分のほうは彼女にとって何の助けにもなってやれなかったからだ。

 

朝になると二人はきれいに別れてしまう。この簡素さが悲しく美しい。他の作品では例えば「女」などでは後に消息が明らかになっているのだが、「秋の一夜」では二度と会っていない。逆にリアリティーがある。

 

ある秋のたった一夜だけを描いているのにもかかわらず、この先も彼と彼女は希望を失わずに生き抜いて見せたんだろうなということを想像できる。この一夜以降の少年の生活は今までの厳しい生活と全く変わりないだろうが、それでも心のどこかに拠り所をもって、あの出会いを生きる支えにすることが出来るようになったのではないだろうか。これはハッピーエンドと言えるだろう。希望がなく幕を閉じた「どん底」とは違う。

 

この少女のように自分の考えをもっているが、時代のせいで落ちぶれた生活を余儀なくされ、それでも懸命にしぶとく生き抜こうとしている人々の素晴らしさを描くことをゴーリキーは自身の使命としていたのかもしれない。

 

もしこれがゴーリキー自身の本当の実体験だとすれば、ゴーリキーの小説を書く理由はここに現われているような気がする。当時は何も出来なかった少年だが、今となっては小説によって懸命に生きようともがく人々の偉大さを世間に発信することで、彼女を救うことが出来るかもしれないからだ。