オストロフスキー『鋼鉄はいかに鍛えられたか』

オストロフスキー『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(1932~1933)の感想を書いていく。

鋼鉄はいかに鍛えられたか〈上巻〉 (1955年) (岩波文庫)

 

この小説は作者であるオストロフスキー自身が体験したことをもとにして革命期から第1次世界大戦後までのウクライナ、ロシアで革命に命を捧げた青年たちの人生を描いた作品だ。

 

主人公のパーヴェルはウクライナの田舎の貧しい家庭に生まれ、学校もほどなくして辞めさせられた。そして彼は小さい頃から様々な職場で仕事をする。最初はけんかが好きで子どもっぽかったパーヴェルが変わったのはボリシェヴィキの青年に出会ってからだろう。ジュフライというその青年に教えられたパーヴェルは「すべての金持たちを敵のいまわしてたたかっているただひとつの革命的な、不屈の党、それはボリシェヴィキの党であることを理解するようになった。」ここから彼は革命のための実際的な行動に参加するようになる。(ジュフライのような共産主義の青年はなんとなく爽やかなイケメンというイメージが私にはある。日本の戦後の小説家妹尾河童の『少年H』に出てきた共産主義者も優しい好青年だった。映画版では小栗旬が演じていたと記憶している)

 

第1部での一貫した敵はレシチンスキー一家である。弁護士のブルジョアでパーヴェルはこの一家をとても憎んでいた。彼は第2部でこの家の娘、ネーリと再会する。しかし立場は数年前と変わっていない。一方は貴婦人となって高価な服に身を包んでいる。一方は電気工として着古した作業着を着て言われた作業に取りかかる。しかししっかりとした目的意識をもつようになっていたパーヴェルは彼女の嘲笑や侮蔑に耐えることが出来た。

 

第1部での一貫したヒロインはトーニャである。彼女もブルジョアだが、パーヴェルが感じたところによれば普通の金持ちの連中とは違う。(そして恐ろしく足が速い。)彼女はパーヴェルのことをしっかりと理解し、協力をする。獄中から逃げてきた彼をかくまうことさえした。もうおそらく二度とあえないであろう二人が過ごす最後の夜はとても美しい。

 

ところが、だ。これが小説であったなら二人はもう二度と会うことなく、パーヴェルの心の中にトーニャが生き続けるという風に終わったのだろうが、これは自伝的小説である。二人は1部の最後と2部の前半で再び再会することになる。これは現実なのかも知れないが、少し拍子抜けした。彼女は成長するにつれて一般的なブルジョアに成り下がってしまった。パーヴェルが鉄道敷設に取り組んでいたときに偶然会った二人は全くわかり合えない。彼女の方はパーヴェルがもっといい仕事に就けるはずだったのに失敗してしまったのだと思い、彼の方は自分の仕事が大切な誇りあることと思っている。これが現実なのかもしれないが、昔あれほどまでに中の良かった二人が、パーヴェルがその人生を革命のために捧げたことによって致命的なまでにわかり合えなくなってしまったのは悲しい。

 

そんな人がもう一人いる。パーヴェルの兄、アルチョームだ。彼は初登場時には怖い威圧的な印象を与えるが、第1部全体を通してドイツ兵に対してストライキをしたり、パーヴェルのことに対してなにくれとなく世話を焼いたりして、良いお兄ちゃん像を確立させていたのだが、第2部で結婚してからパーヴェルの彼に対する見方が一変してしまう。それは彼に言わせれば「小ブルジョア的な営みへの逃避」であった。貧しい家庭の中で何を為すこともなく一生を終えてしまうだろうことをパーヴェルは悲観しているのであった。しかし、トーニャと違いアルチョームとの関係は元通りになる。それはアルチョームがボリシェヴィキに入ったからだ。それはレーニンの死をきっかけとしたものだった。その訃報の伝わり方自体がとても印象深く描かれているのだが、ともかくこれによってアルチョームとパーヴェルの関係も改善したようだ。

 

全体的には多くのエピソードで構成されておりどんどん話が入れ替わる。多くの多彩な人物が登場し、作品のあらゆるところで再会し、重要な役割を果たす。この人物は昔こういう人だったな、と思い出しながら読むのも楽しい。パーヴェルはたくさんの女性と出会うが(一番最初はフロースャからトーニャ、リータ、最後にターヤ)、いずれも恋やその先に発展することがない。それは党の活動の妨げになるとパーヴェル自身が思っているからだ。全体のために個人を押し殺す、しかしこれは間違いだったと彼は物語の後半にリータと再会した場面で気付く(しかしその気づきは遅かった)。

 

第1部では実際の戦闘の描写が多く、パーヴェル以外の視点からの物語が多い。面白く心躍る事件に富み、青年たちが革命に身を捧げていった様子が分かる。この第1部だけで完結しているような気さえする。

 

一方の第2部では戦後の労働作業や党内の分裂が中心だ。パーヴェル視点の物語が多くなり、その思想も洗練されていく。パーヴェルは次第にオストロフスキー自身と重なって見えるようになってくる。最後の最後が一番の盛り上がりだろう。全身が不随になり目も見えなくなった主人公が再び戦列に戻るために(それ以外に彼の生きる支えはない)、自分の新しい道である執筆活動に命を燃やしていく場面だ。ここで完全にオストロフスキー自身と重なってこの物語自体がどのようにして書かれたかを読者は知るとこになり、物語全体に重みが増す。この作品がオストロフスキーの革命のための戦いそのものなのだということを理解できるのだ。